大安寺について
道慈律師どうじりっし
大安寺伽藍の造営を勾当した道慈律師は、大和国添下郡の額田氏の出自ですが、生年は不明で、天武天皇の頃に生まれました。
幼いときから優れた資質を持っていたことは『懐風藻』や『日本書紀』巻十五の『卒伝』などに明らかです。
道慈は大宝二年の遣唐船で入唐し、粟田真人や歌人として有名な山上憶良などが使節として同乗していました。この遣唐使は、初めて南海路を取り、揚州から入唐したとされています。
当時の中国では、則天武后が即位して、国を周と号していました。道慈は大使真人と共に武后に謁した可能性があります。
その後、道慈は長安の西明寺に留まり16年間学びました。西明寺は迎賓館としての性格をもった名刹で、道慈はその伽藍を模して大安寺を作ったといわれています。
西明寺はインドの祇園精舎を模し、祇園精舎は兜卒天(弥勒菩薩の浄土)の内院を模したと伝えられており(今昔物語・扶桑略記)、後に大安寺に住した弘法大師空海は「大安寺は是兜卒の構え、祇園精舎の業なり云々」とその壮麗さを賞賛しています。
道慈が帰朝したのは養老二年(718年)でした。在唐中、彼は経典を渉覧し研鑚を積み、唐の皇帝から特に優賞を加えられました。また三論に精通し、工巧にすぐれました。金光明最勝王経や虚空蔵菩薩求聞持法をもたらしたとされています。
帰国した翌年に、桑門の範として神叡とともに食封五十戸を賜るなど、すでに宗教界の大きな指導的存在となっていました。天平元年(729年)には律師に補せられています。
それから数年後、凶作がおこり、藤原四兄弟を死に至らしめた疫病が蔓延して、人々は恐れおののきます。道慈は大般若経を転読して天下の平安を祈ることを奏請して許され、大安寺における恒例の大般若会が始まりました。
しかし長屋王の招待の宴席を断るなど、僧侶としての本来的な生き方を貫く高潔な精神の持ち主でもあったようで、時の政治にも加担せず晩年はすべての職を辞して竹渓山寺に隠棲し、天平十六年(744年)に70余才で入寂しました。
また、この間にも大安寺は大陸より来朝したインド僧菩提僊那、ベトナム僧仏哲、唐僧道センなどが住し、仏教教学の中心としてますます栄えました。
「続日本紀」の編纂にも関わりました。