日本で最も有名な僧の一人である弘法大師・空海。
10代の空海は当時、七重の塔が並び立つ壮大な大安寺の伽藍で学んでいました。
大安寺と空海の深いつながりについて、お話ししたいと思います。
空海が最初に訪れた場所
空海は讃岐(現在の香川県)に生まれ、15歳で母方の叔父である阿刀大足(伊予親王の侍講)に伴われて上京します。当時の都は、平城京(現在の奈良県)から長岡京(現在の京都府)へ遷っていましたが、整備途上だったため、官吏を養成する大学などはまだ平城京にあったようです。
18歳になって空海はそこで学び始めますが、藤原氏をはじめとする一流貴族の子弟が立身出世を目指す世俗的な環境に、多感な青年・空海は葛藤し、苦悩しました。人としてどう生きるか、人々のためになるには何を学ぶべきか。そうしてついに仏道こそわが道と思い定め、大学を中退し、一気に仏教へ傾倒するのです。
仏道を志した空海が最初に訪れた場所が、仏教の総合学問所的な役割を果たしていた、ここ、大安寺だったのです。
祇園精舎をこの世に表現
大安寺は唐の西明寺を範とし、祇園精舎を日本に移したといわれた寺です。大仏開眼の大導師を務めたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)は亡くなっていましたが、海外の僧も多く、天平時代の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、887人の学僧が居住し、学んでいたようです。
空海は経典をひたすら紐解いて勉学に励み、併せて吉野や四国での山林修業に励みます。大自然の中に身を置くことで「自然智」、宇宙の真理を知ろうとしたのです。その修法の一つ、「虚空蔵求聞持法」を空海に授けたのが大安寺の僧・勤操(ごんぞう)と言われています。空海の剃髪をし、入唐留学の実現にも尽力したとされる勤操は空海に大きな影響を与えた人物ですが、当時の大安寺には学僧や研究者がたくさんおり、彼らも空海に刺激を与えました。
いかに生きるべきか悩み、燃えるような思いで仏教を求めた青年・空海の姿が、大安寺にはあったのです。
大安寺をもって本寺と
なすべし
真言宗を興してからの空海は高野山と京都の東寺を活動拠点とされますが、双方を行き来する道中、奈良を経由したことでしょう。
大安寺、東大寺の別当になられ、元興寺や唐招提寺のお坊さんのための文書を書いておられ、、南都の寺僧とも親交を深めていたようです。興福寺の南円堂築造にも直接関わっていますし、弟子への遺言である「25ヶ条御遺告」の第8条に「大安寺をもって本寺となすべし」とあります。最澄が奈良の仏教界に反発して天台宗を興したのと対照的で、空海は南都六宗の立場を認めた上で、それらを取り込んで真言宗を興したのです。
青垣の山々を望む境内で、今でも何となく、空海の存在を感じることがあります。高野山は完成された空海の姿があるところですが、奈良は若き空海の学びの場所なのです。
大安寺は「弘法大師出身の地」と言えるかもしれません。
空海が仏教の道へ入っていった、その始まりの地だからです。
大安寺 貫主/河野 良文
(こうの りょうぶん)
1951年、福岡県生まれ。15才で高野山に登り、仏門に入る。高野山大学卒業後、開教留学僧としてタイ国留学。3年間余、バンコクの僧院にて上座部仏教の研鑽を積む。帰国後、高野山真言宗教学部勤務。尼僧修道院担当など。1985年、大安寺に入寺。副住職。2002年3月より貫主。現在、奈良日独協会会長、奈良大文字保存会副会長他。