大安寺について
大安寺式伽藍白鳳時代~奈良時代前期
大安寺はかつての平城京左京六条と七条の四坊に位置し、平城遷都にともない藤原京の大官大寺を移築したものです。ただし、大官大寺は和銅四年(711年)に焼亡したといわれ、発掘調査でも確認されています。平城京への遷造開始の時期については和銅三年(710年)説、霊亀二年(716年)説がありますが、本格的な工事の進展は勅命によって道慈律師が造営を担当する天平元年(729年)以降と考えられています。
大安寺の発掘調査は昭和二十九年(1954年)以来、奈良国立文化財研究所・奈良市教育委員会などが数次にわたって部分的に行っています。寺域については左京六条四坊の二~七坪、十~十二坪と、七条四坊の一・二坪、七~十坪の計十五坪を占めたと推定されています。
主要伽藍は南大門・中門・金堂・講堂が南から北へ一直線に配され、小山の大官大寺と配置が同じになりますが、塔は六条大路を挟んで南大門の南にあり、しかも東西に二基並んでいました。東塔跡には土壇と基壇延石、西塔跡には心礎が残っており、早くから国の史跡に指定されています。
これらの塔は天平十九年(747年)の段階では完成していませんが、天平神護二年(766年)には東塔に震災があったという記述が続日本紀にあるため、このころには竣工していたとみられます。 さらに塔は寛治八年(1094年)の『官宣旨案』『七大寺巡礼私記』ともに七重塔であったとしています。
なお、塔が伽藍廻廊外に位置することについて、塔への落雷が伽藍の延焼を招きかねないことから、特別に廻廊外に建てたとする説、長安の薦福寺の塔配置を道慈律師が造営に際して採り入れたとする説、当初は廻廊内に建つはずであったが、造営が進む段階で廻廊が縮められ、僧坊が廻廊全面まで延びたため余地がなくなったとする説なとがあります。
大安寺造営に大きな役割を果たした道慈律師は養老二年(718年)に帰朝していますが、天平十七年(745年)に世を去るまでほとんどを大安寺造営につくしました。大安寺から出土した多くの唐将来品は道慈律師との関わりを色濃く残すものであり、大安寺造営には彼の中国における経験や見聞が大いに活かされたと考えられ、塔院の金堂院からの分化、新来の技法の移入など、のちのちわが国の建築様式にも大きな影響を与えたと見られています。
弘法大師をして「大安寺は是れ兜卒の構、祇園精舎の業なり(25ヶ条御遺告)」と言わしめるほど壮麗であった大安寺も、その後の歴史の推移の中で次第に衰微し、現在では残された巨大な塔の心礎が昔を偲ばせてくれます。しかし発掘の調査結果は、少なくとも大安寺が奈良時代の官大寺の筆頭寺院として遜色のない寺院であったことを、示してくれたといえます。