大安寺について
国の筆頭寺院として、あたかも仏教の総合大学の様相を呈していた大安寺には国内のみならず、海外の渡来僧も多く居住していました。
ここでは、そういった名僧たちを紹介します。
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菩提僊那ぼだいせんな
天竺(インド)僧。704年、南インドでバラモン階級の子として生まれる。天平七年(736年)遣唐使にしたがって来朝を果たし、大安寺に住した。行基と親しく交わり、天平勝宝二年(750年)には僧正に任ぜられ、その二年後の東大寺大仏殿開眼供養では勅命により大導師を務める。天平宝字四年(760年)大安寺にて57歳で入寂。
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道璿どうせん
唐僧。菩提僊那らとともに、天平七年(736年)遣唐使にしたがって来朝を果たし大安寺に住す。天平勝宝二年(750年)には律師に任ぜられ、その二年後の東大寺大仏殿開眼供養では呪願師を務める。天平宝字四年(760年)入寂。
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仏哲ぶつてつ
林邑(ベトナム)僧。菩提僊那、道と共に、天平七年(736年)遣唐使にしたがって来朝し大安寺に住した。ベトナムの舞楽、林邑楽を伝え、大仏開眼供養の儀式を盛り上げた。これは日本の雅楽の中に伝えられている。
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審祥しんじょう
新羅(朝鮮半島)僧。または遣新羅留学僧とされる。大安寺に住した。東大寺の前身、金鐘寺で良弁等に「華厳経」の講義を行う。8世紀華厳隆昌の指導者として知られる。
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善議ぜんぎ
大安寺僧。道慈に学び、三論の学僧として入唐して三論宗を究める。勤操の師。弘仁三年(812年)84才で没した
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普照ふしょう
大安寺僧。伝戒の師を日本に招聘すべく養老五年(733年)の多治比広成を大使とする第九次遣唐使に加わる。在唐20年、五度の渡航失敗を経て、天平勝宝六年(754年)ようやく帰朝を果たし、鑑真招聘を成功させる。生没年不詳。
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栄叡ようえい
普照と同様、授戒師を日本に招聘すべく入唐。投獄などの憂き目に逢いながらも、授戒師を求め、奔走する。しかし入唐して17年目の750年、中国南部瑞州にて熱病により入寂する。
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行表ぎょうひょう
大安寺僧。天平十三年(741年)勅により得度。道センについて華厳を学ぶ。最澄の剃髪の師。その後近江崇服寺に住し、近江の国師となり、伝燈法師位に叙せられる。晩年は吉野の比蘇寺に退き、延暦十六年(797年)大安寺西院において76歳で入寂する。
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戒明かいみょう
大安寺僧。若くして大安寺慶俊に師事して華厳を修める。入唐留学僧。請来した仏典の中で偽経とされるものがあったことから筑紫の国師として大安寺を離れる。空海に影響を与えた人物とも目されている。
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永忠ようちゅう
大安寺僧。天平一五年(743年)生まれ。渤海経由で入唐し長安の西明寺で学ぶ。空海が入唐した時に僧坊を譲って帰国し、後にも空海と親交が続いた。
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空海くうかい
弘法大師。宝亀五年(774年)讃岐国で生まれる。18歳で大学に入るが、仏門に入ることを決心。19歳の時、大安寺の勤操大徳により得度を受け虚空蔵求聞持法を授かり大竜ケ嶽や室戸岬で修した。延暦二十三年(804年)入唐し、密教を学ぶ。弘仁七年(816年)には高野山に金剛峰寺を開き、弘仁十四年(823年)には嵯峨天皇より東寺を与えられ、この両寺を中心に真言宗を広めた。天長6年(829年)大安寺別当に補せられる。
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最澄さいちょう
伝教大師。神護景雲元年(767年)近江国で生まれる。12歳の時、大安寺の行表の室に入り近江国分寺で得度する。その後東大寺で受戒。比叡山に草堂を建て天台の著書を学ぶ。延暦二十三年(804年)空海らとともに還学生として入唐、翌年帰国して天台宗を開く。
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行教ぎょうきょう
大安寺僧。仁和寺益信の族兄。貞観元年(859年)、豊前国宇佐八幡宮から3神を分霊して、山城の国石清水に八幡神を勧請する。石清水八幡の開祖。