大安寺について

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大官大寺大安寺

 和銅三年(710年)都は藤原京から平城京に遷され、大安寺(大官大寺)もそれにともない遷寺しました。造営の時期には諸説ありますが、養老二年(718年)に唐より帰朝した遣唐僧どうの勾当によると考えられ、本格的な工事は天平元年(729年)以降とみられています。
 「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」には、その実状が詳しく記されています。
 平城京左京の六条と七条4坊の地に15の区画(坪)に分けられた広大な寺域を占め、金堂・講堂を中心とする主要伽藍には三面僧坊が建ち並び、その中に887人もの僧侶が居住して勉学修行に励みました。
 南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣で、そのはるか南に七重の塔が二基、東塔、西塔と聳えていました。尤も塔院は天平十九年当時にはまだできていなかったようで、資財帳にその記載はありません。塔院が完成した時期は明らかではありませんが、残された基壇の規模から推測すると70メーターを超える巨大な塔がたったようでもあります。
 金堂の本尊丈六釈迦如来像をはじめとして、諸堂には菩薩像、四天王像、十大弟子や八部衆像などおびただしい数の仏像がまつられ、大般若四処十六会図、華厳七処九会図などの画像、繍帳がきらびやかに堂塔を荘厳し、金剛般若経、金光明経、大般若経、一切経など膨大な数の経典が経蔵に収蔵されていたようです。

 その当時居住した数多の学僧は歴史に名を留める人物も多く、三論を伝えた道慈の活躍は後に大安寺を三論宗の本拠とし、しんじょうは華厳の大家として知られました。律、法相、倶舎、成実といった南都六宗が共に学ばれ、さしずめ仏教の総合大学の様相を呈していました。
 海外の渡来僧も多く、東大寺大仏開眼の大導師をつとめたインド僧だいせん、呪願師をした唐のどうせん、さらに盛儀に華を添えたのは、りんゆうがくを披露した林邑僧(ベトナム)の仏哲でした。共に大安寺に居住し、生涯を日本で過ごした人たちです。
 前後しますが、聖武天皇は伝戒の師(授戒の導師となる高僧)を求め、大安寺のしょうと興福寺のようえいが唐に遣わされました。天平五年(733年)四月、二人は遣唐船で難波津を出航して長安に達し、先の道璿、菩提僊那、仏哲等に渡日を要請。その来朝がかないました。さらに十年、明師を求め、ついに楊州の大明寺に鑑真を訪ねます。その招請に応えて鑑真和上は自らの渡日を決意されたと云います。 
 鑑真和上の渡航は困難を極め、五度の失敗、六度目にしてようやく日本に到達することになります。その間十二年が経過し、鑑真和上は視力を失い、栄叡は病を得て亡くなってしまいました。一人普照が和上一行二十五名と共に歓喜の帰還を果たしたのでした。
 和上は天平勝宝六年春、大仏殿に戒壇を設け、聖武・孝謙天皇をはじめ、衆僧・文武百官など四百余人に戒を授けました。鑑真和上の来朝は授戒という仏教の根幹に寄与するところが大きく、それだけに大安寺僧普照の功績を忘れることはできません。

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