大安寺について
弘法大師と大安寺
東大寺が建立され、興福寺が藤原一族の氏寺として強大な力を持つようになり、また称徳女帝により西大寺が建立されるなどして、後世にいう南都七大寺が成立しますと、大安寺は南大寺ともいわれて尚威厳を保ちますが、次第にその勢力も分散されていきます。
奈良時代末ごろには難解な三論宗が敬遠され、法相唯識が好まれる傾向がでてまいりましたが、その所依であった三論宗の系譜の中から次の時代の立て役者、最澄、空海が登場します。
伝教大師最澄の剃髪出家は近江の国分寺でありましたが、剃髪の師は国師として赴いていた大安寺の行表でした。師について学んだ最澄は後に大安寺の塔院で法華経の講義をしたといわれます。
弘法大師空海の師は大安寺の勤操だといわれいます。近年、直接の師弟関係を疑問視する見方もありますが、二人の間には深い親交があったことは否めません。空海は「勤操大徳影の讃」を表わして、大徳を讃えています。
また大師が若い時代に虚空蔵菩薩求聞持法を修したことはよく知られますが、この法の初伝は大安寺の道慈律師でした。入唐留学の長安で善無畏三蔵にまみえ、直接に経典を承けたと云われます。
これが大安寺に伝えられ、勤操を始め多くの大安寺に関わる人たちの間で修されていました。大師もこのような中で求聞持法に出会い、山林斗籔をすると共に大安寺経蔵の奥深くに入って膨大な経典を紐解き勉学に励んだのです。
凝然は『三国仏教伝通縁起』において、「道慈、真言の法を以って善議・慶俊に授け、議公これを勤操僧正に授け、勤操、求聞持の法を弘法大師に授く」といって、道慈-勤操-空海という三論系譜の線によって奈良時代の密教が空海に及んだとみています。
とりもなおさず大安寺は、青年空海が、燃えるような思いで仏道に突き進んだ時代の姿がある場所といえます。
弘法大師は二十五箇条の『御遺告』第八において、道慈を「わが祖師」と称し、勤操を「わが大師」と呼んでいます。天長六年(829年)には、空海は大安寺の別当に補せられましたが、さらに「大安寺を以て本寺となし釈迦大士に仕え奉るべし」として弟子達を多く入住させたと言われます。
空海の弟子中、大安寺に住した人として實恵、真然、智泉、仁和寺の益信、八幡神を京に勧請した行教などがあげられます。