大安寺について
衰退と復興
都が京に移りますと、旧都は次第に寂れますが、残された諸大寺はなお盛観を保っていました。しかし、やがてはそれぞれの栄枯の歴史をたどることになります。
大安寺の最初の火災は延喜十一年(911年)と伝えられていますが、大きな打撃となったのが寛仁元年(1017年)三月一日の火災です。西塔・講堂・食堂・宝蔵・経蔵・鐘楼などが焼けてしまいました。
当時、栄華の絶頂にあった藤原道長は吉野詣でで大安寺に宿泊していますが、治安三年(1023年)の南都七大寺巡礼の際には変わり果てた寺容に心を痛めたことでしょう。
その後の再建も旧態に及ばず、藤原氏庇護の興福寺に支配されるようになりました。
平安末期の源平争乱で南都は、平重衡の「南都焼き討ち」にあい、文字通り焦土と化しました。
その後、鎌倉の世になると、重源による東大寺再建をはじめとした南都再興が着手されました。大安寺でも永久四年(1116年)に鐘楼が再建されたとの記録があります。
また蒙古襲来の時、幕府は諸国の社寺に異敵降伏の祈祷を命じました。大安寺は永仁六年(1298年)四月十日、西大寺・唐招提寺・法華寺などとともに将軍家祈祷所とされたことが記録されています。
室町時代にも大安寺は修理再建が続けられていたことが記録されています。文明十五年(1483年)には大安寺再興勧進の踊念仏が行われたという興味深い記録があります。
しかし、秀吉の時代、慶長元年(1596年)閏七月二十日に起こった大地震により大安寺は決定的な打撃を受けました。しかし、その中で、九体の天平仏は難を逃れ、今日に残りました。
廃墟と化した大安寺の再興には江戸時代の海龍王寺高籖や江戸室山寺の堅雄による尽力がありましたが、なかなか実を結びませんでした。
しかし、明治十五年(1882年)、奥山慶瑞・佐伯泓澄が私財を投じて小堂と庫裏一棟を建立し、大安寺再興の第一歩を記し、さらに石堂恵猛等によって現本堂が建立されました。
大正八年(1919年)に史跡名勝天然記念物保存法が公布され、「大安寺塔跡」が大正十年(1921年)に指定されました。これは奈良県で最初の指定でありました。
昭和に入ると先代河野清晃が大安寺住職を拝命し復興をめざしました。昭和三十一年(1956年)には奈良日独協会を設立し国際的視野での再興もめざし今に継続されています。
年中行事として光仁会・笹酒祭りや竹供養、正御影供法要などを興し、わけても一月二十三日と六月二十三の笹酒まつりは、がん封じ祈祷とあいまって毎年多くの参詣者で賑わい、古都の風物詩として高く評価されています。
境内の整備は平成になって格段と進みましたが、更なる復興に尽瘁し、栄枯盛衰の歴史の中で脈々と伝えられた一四〇〇年来の法灯を後世に伝え、三論宗の復興をめざして努力してまいります。